なんせよ幼児は「見て!」が多い。見ることの効用を考える。
公園にて少し離れた遊具のてっぺんから「おかあさん!」と手を振ってくる娘を眺めながら、いったいこの人はどれくらいに親のまなざしを求めているのか、というようなことを考えて。
なんせよ幼児は「見て!」が多い。片手間でチラ見では絶対にダメで、自分が「見て!」に込めた熱量を見る側の大人にも求めてくる。おざなりに見ると「見て!」の熱量が上がって大惨事になるので、兎も角も手を止めて「見る」に集中せなばならぬ。ただ「見る」とは。
— つむり@頭に毬藻が生えている (@TsumuRi) 2021年10月17日
見た感を演出しなくても何を見たか表明すれば納得するけど、ちゃんと見ないと表明できないので手強い。地味な小ネタ仕込んでて、小ネタに気づいてないと「ちゃんと見て!!!」になったりとかさあ。
— つむり@頭に毬藻が生えている (@TsumuRi) 2021年10月17日
娘だけではなくよそのお子さんもそうかと思いますが、とにかく幼児は「見て!」が多いです。
言葉が出るようになると「聞いて」も加わりますが、娘の話はたいてい取り留めのない話で、要領を得ないこともよくあるので、この話いつまで続くんだろうと悶々とすることも多いのですが。
他愛もない「見て」「聞いて」は見えないところで大切なものを育んでいて。
これ、「見て」以外に「聞いて」がある。何か言ってほしいわけではなくて言葉どおりの「聞いて」。これも相応の熱量を求められる。子が大きくなって親が「聞かせて」と思うようなことは多分、幼児期に「見て」「聞いて」もらった体験を十分に積んでないと秘匿される。「見る」「聞く」が育むもの。
— つむり@頭に毬藻が生えている (@TsumuRi) 2021年10月18日
佐々木正美先生は「子どもへのまなざし」の中で、大切なことを打ち明けて大人の言葉を受け止めるにはとりとめもないことを聞ききってもらう経験が必要というようなことを書いていた。
— つむり@頭に毬藻が生えている (@TsumuRi) 2021年10月18日
児童精神科の診察室で出会った思春期の子どものエピソードだから、2冊目の「続」だと思う。
娘が望むように娘を「見て」「聞いて」いるだろうかとふと我が身を振り返った秋の日の話。
最後のtweetにある2冊目の「続」はこれです↓